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伯父の葬儀を通して

 先週の月曜日、父方の伯父が90歳で召されました。父は四男一女五人兄弟の三男ですが、長男は第二次世界大戦のためビルマで26歳で戦死しましたので(ちなみに戦死した伯父の名前は忠直といいます。生まれかわりではありません)、今回召された二番目の伯父が小平の家を継ぎました。実はこの伯父も戦後奇跡的に満州から帰国することができ、父はその後上京し、そこでクリスチャン夫妻に出会い、そしてイエスキリストに出会い、母に出会い、牧師としての献身に導かれ、そして今の私たちがある、というわけです。もしこの伯父が帰国できなければ、父は実家に留まったのではないでしょうか。そうなるとその後のことはすべて変わってきたわけです。

 私自身もこの伯父夫妻には大変お世話になりました。父が西宮で開拓を始めて数年後に病のため療養することになり(このあたりは「あしあと」に記された教会歴史をお読みください)、当時6歳の私は伯父夫妻と祖父の家にあずけられました。父の看病をしつつ幼い私や弟を育て、開拓途上の教会の牧会をすることは、当時すでにお腹に妹を宿していた母にはとても無理なことであったと思います。伯父たちは親のように私に接してくれましたが、特に伯父は本当に優しく私を愛してくれましたので私自身は慰められたと思います。

 私にとっては幼い日の少し悲しい思い出であり、しかし多くのことを得た経験でした。やがて西宮に帰って来た時、元気な父の姿が嬉しかったことと、見たことのない赤ちゃんがいたことにちょっと驚いたことを覚えています。だれでもそうですが、人生には嬉しいこともありますし、悲しいこともあります。しかし一つも無駄なことはなく、神様のご計画は完全であり恵みに溢れていることを、葬儀に出ながらあらためて思わされました。ローマ8:28。

 葬儀には本家筋の穂高神社の神主の方々をはじめ多くの親族が集い、父にとっても主の恵みを証しする良い機会となりました。主に恥じることなく従うなら必ず祝福してくださいます。(小平牧生)

「主の証人となる」ということ

祈りの友2012年5月

「主の証人となる」ということ

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…」マタイ二八19
 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒一8

●主の証人であることを知ろう
 家族で米国に滞在した時のことです。最初の頃は現地のスーパーで目にする目新しいものばかり食べていましたが、一ヶ月もしないうちに飽きてしまいました。やがて一軒の食品店を見つけました。それからはそこで手に入れた漬け物や佃煮(のようなもの)が私たちのごちそうになりました。その店の名は「マニラ」。フィリピンの方の経営するお店でした。米国に行って自分がアジア人である事実に目覚めされられた経験でした。

 私たちは自分の慣れ親しんだ世界から外に出ることによって、自分が何ものであるかに気がつくことがあります。反対に、自分の世界に留まり続けると自分に与えられている恵みや使命が見えなくなることもあります。学校や職場はクリスチャンとして生きるのがむつかしいところかも知れません。しかしそのような場所こそ、私たちが「主の証人である」という事実に気がつかされる場所なのです。

●主の証人として出て行こう
 大学生の頃の私はクリスチャンの交わりが楽しくて朝から夜まで教会で過ごしていました。その結果、大学やアルバイト先の友人とは疎遠になっていきました。この世の交わりから離れるとクリスチャンが受ける辱めや誘惑はなくなりましたが、伝道する友人もいなくなってしまいました。
 今では私にはクリスチャンの友人はいても、クリスチャンでない友人がほとんどいません。周りはクリスチャンだらけです。もっとこの世に出て行って、知人を得て、友人を造り、福音を証しする者になりたいというのが私の願いです。

 もし、私たちが教会の中にとどまっているなら、主の証人としての務めを果たすことができません。人々が教会に来るのを待っているだけでは、大宣教命令を果たすことはできません。私たちは「あらゆる国」そして「地の果て」に出て行かなければならないのです。それは外国に行くということではありません。自分自身の世界を出て、福音を伝えるべき人々の世界に出て行くということです。

●主の証人として一つになろう
 しかし、主を知らない人々の中に出て行こうとする時、そこには危険や困難があるということを忘れてはなりません。この世の力は想像以上に強いのです。もし私たちが主の証人としての使命を果たそうとするなら、主の教会にしっかりとつながっていなければなりません。私たちのきよさは、この世から離れることではなく、イエスキリストにつながることによって保たれるのです。私たちが教会の交わりをおろそかにするなら、主の証人としての力を得ることができないのみか、きよさを失う危険があることを忘れないようにしましょう。
 
●創立70周年にむかって
 私たちの教団は4年後の教団創立70周年にむかって「主の証人となる」ことを目標に掲げました。これを単なる目標に終わらせてはなりません。教会が取り組むだけではなく、一人一人が「主の証人となる」ことに取り組みましょう。ある人にとっては自分の学校や職場で「主の証人となる」ことであり、ある人にとっては牧師として献身して「主の証人となる」ことかもしれません。いずれにしろ、自分の世界から出て行かなければならないのです。
 同時に、私たちはキリストのからだとしての教団の交わりをしっかりと築き上げましょう。主の証人としての使命を果たすために、これまでの経緯やお互いの事情を後回しにして、私たちは心と力を一つに合わせなければなりません。特に、東日本大震災の被災地にある教会、全国に11ある無牧の教会、また開拓途上にある教会のために祈りましょう。私たちが一つとなって「主の証人」としての使命を果たしていくことができるように互いに愛し合い、祈り合いましょう。

 父なる神様。
 私たちが、この世にあってイエスキリストの証人であり続けることができますように。
 私たちが、この世にあってイエスキリストのきよさを生き続けることができますように。
 私たちが、この世にあってイエスキリストのからだとして一つであり続けることができますように。
 教会のかしらであるイエスキリストの御名によって祈ります。
 

私のために祈ってください

 いつも、私のためにお祈りをいただきありがとうございます。
 この誌面でもご報告しましたが、三月末に行われた教団総会において教団理事長に選任されました。すでに理事として一期務めた後ですので、理事長の任期は一期二年ということになります。

 数年前に教団の理事として奉仕することになった時、いろいろと多忙になることで教会の働きにもご迷惑をかけたり、各チャペルの皆さんの期待に応えられないこともあって、全体委員会の時であったと思いますが、消極的な表現でご報告したことがありました。それに対してあるリーダーの方が、
 「先生が与えられた責任を喜んで受けなければ、教会員もこのことを喜べませんよ。先生が多くの方々から信頼されて重責を担われることは、私たちにとっても祝福であることを教会全体で受けとめるべきだと思います」
 と言われました。私はガーンと頭をたたかれたような、同時にジーンと目頭が熱くなるような、そのような思いを感じたことを覚えています。

 教団理事会は牧師4名と信徒3名の合計7名の構成ですが、特に牧師による常任理事会は全国65の教会と134名の牧師に対する日常的な指導や運営等の責任を持っています。また私自身は教団を代表する対外的奉仕も増えることが予想されます。
 私の祈りは、このように仕えることが決して消耗や浪費ではなくて、むしろ先のリーダーの方の言葉のように、与えることによって私たちの教会が多くの祝福と喜びをいただくことができるようにということです。
 教会員の皆様にあらためてお願いしたいことは、理事会や教団本部のスタッフ、またニューコミュニティの忠直主事、各チャペルのリーダー、そして私の妻や家族、そしてニューコミュニティのお互いのメンバーやご家族のために、さらに続いて祈りの手をあげていただきたいことです。よろしくお願いいたします。(小平牧生)

ぶつぶつ

教団の総会/大会から帰ってきて、風邪をこじらせてしまいました。
その間もいろいろとお客様があったり出かけなければならないことが続いたので、なかなか回復しません。

ところで、この一年程の間、一つの大きな問題に直面しています。

自分の置かれた責任から、また主にある兄弟としても、何度も忠告を重ねていますが、まったくことばが通じないというか、逆に悪意があるとしか思えない態度が返ってきます。何度もだまされ、裏切られます。最後に行った時には、怒鳴られて追い出されてしまいました。

一方では、「彼をかばっている」との批判を受けます。「何一つ問題ない」と、私が公の会議で発言している?というのです。いつも無責任なことばを勝手に言いふらす人がいるのですが、これもまた残念なことです。疑問があれば、私に直接言えばいいのに。

「いつかもこんなことがあったな。」
「どうして僕はこんな役回りが多いんだろう。」

でも、教団標語をテキストにメッセージを準備している時に、「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」(1テサロニケ5:14-)のみことばを読みながら、なんだか意気消沈している自分が情けなくて涙が出て来ました。
特に「悪をもって悪に報いないように」、「すべての人に…善を行うように」とのことばが心に響きます。

体調を崩して休む中で、イエスキリストの十字架を思います。

「なんとちっぽけな自分なんだろう。」

一人の人を真の意味で愛し抜くことの困難を感じています。

強い絆を

東日本大震災の痛みは多くの人々の心と人間関係に影響を与えています。
その傷は、時間とともにおさまるどころか、大きくなっています。
自分自身の力のなさに腹が立つ思いです。

先日、東日本大震災追悼記念礼拝で森祐理さんが歌っておられた曲です。
強い絆をつくりたい。そう思います。

http://www.youtube.com/watch?v=WV0zuJolrfk

結婚式で

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先週の日曜日、忠直と早苗さんの結婚式が行われました。

弟はもちろんですが、家族や私自身にとってこのしばらくの期間は神様の前にも人の間でも取り扱われ、また自分のクリスチャンとしてまた牧師としての心を探られる時でした。しかし、私たち小さく愚かなものに対しても神様の愛は変わりなく、神様は必要な時間をかけて、何一つ無駄なく、関係するすべての者たちに最善の道を備え配慮を与えてくださいました。

この結婚式を通しても、神様の深い愛とともに主の教会の祈りと祝福をあらためて知りました。こんなにみなさんが喜び祝ってくださっている様子を見ながら、教会のみなさんが自分のことととして受け止め、ある時は苦しみ、また祈り、この日を待ち望んでくださっていたことを感じました。

ありがとうございました。

クリスチャン青年のビジョン

先日、仙台で行われた3.11復興記念礼拝で知り合った若いクリスチャン国会議員。
彼の証が読めます。

http://www.christiantoday.co.jp/article/4305.html

福島市の現状

福島県は広い。
浜通りに目が行くが、内陸の福島市にも目を向けたい。

http://drcnet.jp/201110/dis00001.php?gkey2=1327990352&gskb=video

石巻キリスト教会のこと

石巻キリスト教会への支援が結集し、地域の宣教センターとしての働きが始まることになりました。

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忘れてはならない

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祈りのしおりとして使用してください。

大船に乗った気持ちで

この主日は、春のニューコミュニティディ。

午前の礼拝では、マルコ4章から「大船に乗った気持ちで行こう」との題でメッセージ。

イエス様について行ったら、
・ゲラサ人の地へ
・激しい突風が

しかし、イエス様がわたしたちと同じ舟におられる。

“弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』”

波風の中で、私たちは何を願うだろうか。私たちの平安の根拠はなにか。
・海が穏やかになることか
・舟が大船であることか
・船頭が熟練していることか

主イエスは言われる。
“どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。”

信仰が弱いとか、信仰が小さいとかではなく。信仰が「ない」のはどうしたことか、と。からしだねひとつぶのようでも信仰があればいい…。

マルコはイエス様のことばを続ける。
・黙れ、静まれ。
・汚れた霊よ。出ていけ。
・すこやかでいなさい。
・起きなさい。

私たちの人生に響く主の御声。

大船に乗っていても小舟に乗っているような気持ちの人もいれば、
小舟であっても大船に乗っているように生きる人もいる。

午後は三つのチャペルでニューコミュニティディ。
・ファミリーアワーとして昨年メンバーになられた方々の紹介など15分。
・教会総会として45分。
・新しく遣わされていくメンバーのあかしと派遣の祈りの時を30分。

あっという間の90分。すばらしい教会の交わり。

「主に近くあろう。主とともにいよう」
そうすればかならず実が結ばれる。

リ・トリートの必要性

昨日から妻は教会の「女性リトリート」に出かけている。
山のふもとの施設での二泊三日の静まりの時を持っている。

もう15年も前になるが、アメリカの教会で過ごした時に「女性リトリート」があって妻も誘われた。同じバイブルスタディのグループの女性たちが子どもたちだけではなく、あかちゃんさえも夫に任せて、枕を抱えてリトリートに出かけて行く姿を見て、日曜日も忙しい日本の女性の方々にもこのようなプログラムがあればいいなあと話し合った。

そして昨年から、恵が中心になってリトリートを始めた。参加するためには犠牲があるし、何よりもその意義が充分に理解されていないだろう。男性だけではなく、女性の場合も、忙しい!と言いながら、むしろそれを楽しんでいるのではないか。生活の中にどんなかたちであってもリトリートの時を入れる必要性をまだまだ感じないようだ。

リトリート。それは、リ・トリートだ。つまり、再び、取り扱われること。これは生活の中で定期的に繰り返されていかなければならない。私たちが人生の質を上げるていくためにはどうしても必要なことだと思う。

お前はやれるよ

数年前に日本福音同盟の総会で理事に選ばれた時のこと。

総会のあとで行われた新旧理事の引継ぎの理事会で、退任する理事の方々が挨拶を述べられた。
その席で任期を終えて退任するN先生が、理事としての奉仕の思い出や感謝のことばを話されたあとで、
「私の奉仕は終えますが、新しく理事に選ばれた小平はよい賜物があたえられていますので、日本福音同盟の働きのために貢献することができると確信しています。よい後継者にバトンタッチできて、感謝してこの任を終えることができ幸いです。」
という話をされた。

突然、名指しされたことに驚いたことはもちろんだが、しかしそれ以上に、N先生の言葉にとても励まされた。

もちろん、先生の言ってくださったような者ではないし、
慣れないところで緊張しまくり?の私だったが、

先生の言葉に
「お前はやれるよ」
「大丈夫だ」
という励ましを感じ、
「お前を誇りに思っているよ」
と言ってくださっているように思った。

そして、その言葉の向こうに
神様の
「お前はやれるよ」
「大丈夫だ」
「お前を誇りに思っているよ」
という声を聞いた。

私たちは
特に男性は、

先輩からの
父からの、
「お前はやれるよ」
「大丈夫だ」
「お前を誇りに思っているよ」

そういうことばを待っているのではないだろうか。

よい機嫌の人

成熟した人とは、どんな時もよい機嫌でいることができる人です。

この人は、「良いことがあったから、機嫌がいい」のではないようです。
また、機嫌の悪い人は「悪いことがあったから、機嫌が悪い」のではないようです。

よい機嫌でいる人は、悩みがないわけではありません。
もちろん何も感じないわけではありません。

その人が何に支配されているか、ということですね。

責任ある立場を離れてからが

責任ある立場にある時には、自分の責任をとる。
やがて責任ある立場を離れたら、責任ある立場の人を支える。

ところが、

責任ある立場にある時は、弁解ばかり。
そして責任ある立場を離れたら、責任ある立場の人を攻撃し始める。

こういう人も多いですね。
残念なことです。

小林廉直先生が、
「教会の役員はその役を離れてからが大切だ。」
と役員の就離任式の時に言っていたことを思い出しますね。

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